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産業・経済(さんぎょう・けいざい)

野内与吉(のうちよきち)

  • 地域(ちいき)

    県北地域(けんぽくちいき)
  • 市町村(しちょうそん)

    大玉村(おおたまむら)
  • カテゴリー:

    産業・経済(さんぎょう・けいざい)
  • 生没年:

    1895~1969
  • 時代:

    明治(めいじ)~昭和(しょうわ)

人物紹介(じんぶつしょうかい)

明治28年(1895)11月、野内与吉は、玉井村字中道で、野内与惣松(よそまつ)とイセの次男として生まれました。
 明治43年3月に玉井尋常小学校を卒業しました。若い頃から海外へのあこがれが強く、両親の反対を押し切り、21歳のときに契約移民としてゴム景気に沸くペルー共和国へ出国を果たしました。一時アメリカ、ブラジル、ボリビアに渡りましたが、大正12年(1923)よりペルーへ戻り、ペルー国鉄クスコ・サンタ・アナ鉄道に勤務し、マチュピチュに移住しました。
 44歳のときにマチュピチュ地区の行政最高責任者に就任し、さらに、村のために尽力したことで村民からの信望を集め、53歳のときから2年間マチュピチュ村の初代村長を務めました。
 マチュピチュ遺跡を自分の庭のように歩き、ホテルを開業したり水力発電所を造ったりしました。
 昭和33年(1958)に三笠宮殿下がマチュピチュ遺跡を見学した際に、与吉の長女オルガ・ノウチが花束を差し上げたことがニュースになり、日本にいる親族が彼の消息を知ることになりました。そして、73歳の時に半世紀ぶりに大玉村に帰郷を果たし、それから1年後の昭和44年8月、ペルーのクスコの地で、家族に見守られながら74年の生涯を終えました。

資料・他(しりょう・ほか)

おおたま学

主な業績(おもなぎょうせき)

  • 1948~1950年 マチュピチュ村初代村長

のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)

大玉村出身の野内与吉が、マチュピチュ村のために尽力したことでマチュピチュ村民の信望を集め、53歳のときから2年間村の初代村長を務めました。
 このことで、平成27年(2015)11月 大玉村とマチュピチュ村が友好都市協定を結びました。

関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)

副読本(ふくどくほん)

関連文献(かんれんぶんけん)

詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)

大玉村歴史民俗資料館「あだたらふるさとホール」
℡ 0243-48-2569

現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)

JR東北本線本宮駅下車 タクシーで10分

その他(そのほか)

教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)

〒969-1302 大玉村玉井字西庵183 大玉村農村環境改善センター内
℡ 0243-48-3139

野内与吉とその家族

ペルーにある「野内与吉スタジアム」

マチュピチュ遺跡

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