

文化・芸術(ぶんか・げいじゅつ)
八橋検校(やつはしけんぎょう)
地域(ちいき):
いわき地域(いわきちいき)市町村(しちょうそん):
いわき市(いわきし)カテゴリー:
文化・芸術(ぶんか・げいじゅつ)生没年:
1614~1685時代:
江戸時代(えどじだい)~江戸時代(えどじだい)
人物紹介(じんぶつしょうかい)
八橋検校(やつはしけんぎょう)は、江戸時代のはじめ頃に活躍(かつやく)した筝曲(そうきょく)の演奏家(えんそうか)で作曲家です。
生まれた場所については、いわき市あるいはその周辺とする説(せつ)が有力ですが、ほかにもいくつかの説があります。幼いころから目が不自由でしたが、三味線(しゃみせん)、筝(こと)の技法(ぎほう)を学んで、演奏者としての名を高めました。
1639年に目の見えない人たちによる組織(そしき)「当道座(とうどうざ)」の最上級官位(さいじょうきゅうかんい)である検校に任(にん)じられました。はじめ上永(うえなが)検校と名乗りましたが、後に、八橋とあらためました。八橋検校は、それまでの筝曲に工夫をこらし『六段の調べ』をはじめとする多くの名曲を作りました。貴族(きぞく)・武士(ぶし)・僧侶(そうりょ)などの音楽(おんがく)だった筝を芸術(げいじゅつ)音楽へと発展(はってん)させたことで、たくさんの人々が筝を弾(ひ)けるようになりました。
資料・他(しりょう・ほか)
『八橋検校』 八橋検校没後三百年祭実行委員会主な業績(おもなぎょうせき)
- 伴奏曲としての組歌『筝曲歌十三曲』を創作しました。
- 器楽曲としての段物(だんもの)三曲『六段の調べ』『八段の調べ』『みだれ』を作曲しました。
のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)
八橋検校が近代筝曲の道をひらいたことにより、そこからそだった弟子が上方(かみがた)で生田流(いくたりゅう)を、江戸(えど)で山田流をたて、しょ民の間に筝をひろめました。関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)
- 金戒光明寺常光院
(こんかいこうみょうじじょうこういん)
八橋検校の墓所
京都市左京区黒谷にあります。 - 「八はしでら」の碑(ひ)
金戒光明寺常光院の入り口にたっています。 - 八橋検校顕彰碑
(けんしょうひ)
東京 上野公園の不忍池弁才天(しのばずのいけべんざいてん)境内にあります。 - 八橋検校の碑
昭和39年、いわき市平小太郎町公園内に生誕350周年を記念してたてられました。
副読本(ふくどくほん)
関連文献(かんれんぶんけん)
詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)
現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)
- 八橋検校の碑(小太郎町公園内)
JR常磐線「いわき駅」より南へ徒歩15分
その他(そのほか)
教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)

- 片寄平蔵(かたよせへいぞう)
- 安藤信正(あんどうのぶまさ)
- 照島ウ生息地(てるしまうせいそくち)
- 上平窪のシイノキ群(かみひらくぼのしいのきぐん)
- いわき絵のぼり(いわきえのぼり)
- いわき和紙(いわきわし)
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