

郷土開発(きょうどかいはつ)
保科正之(ほしなまさゆき)
地域(ちいき):
会津地域(あいづちいき)市町村(しちょうそん):
会津若松市(あいづわかまつし)カテゴリー:
郷土開発(きょうどかいはつ)生没年:
1611~1672時代:
江戸時代(えどじだい)~江戸時代(えどじだい)
人物紹介(じんぶつしょうかい)
会津松平家の初代藩主(しょだいはんしゅ)です。徳川幕府(とくがわばくふ)三代将軍(しょうぐん)徳川家光(いえみつ)の異母弟(いぼてい)で、二代将軍徳川秀忠(ひでただ)の子として生まれ、武田信玄(たけだしんげん)の娘である見性院(けんしょういん)に育てられ、信州高遠城主(しんしゅうたかとうじょうしゅ)保科正光(ほしなまさみつ)の養子(ようし)となりました。
信州高遠城主、出羽(でわ)山形城主を経て、1643年に会津城主となりました。異母兄(いぼけい)三代将軍家光からたいへん信頼(しんらい)され、その子、四代将軍家綱(いえつな)を補佐(ほさ)しました。
江戸住まいがほとんどで、領内(りょうない)の会津は家臣(かしん)を指導(しどう)して治めました。また、家訓(かくん)十五ヶ条で子孫(しそん)に徳川家への絶対忠誠(ぜったいちゅうせい)、法の絶対服従(ふくじゅう)をしめしました。
資料・他(しりょう・ほか)
ゆかりの人物市ホームページ
主な業績(おもなぎょうせき)
のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)
関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)
会津藩松平家墓所(ぼしょ)/会津松平家の墓があります。史跡若松城(しせきわかまつじょう)
副読本(ふくどくほん)
関連文献(かんれんぶんけん)
詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)
現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)
- 会津藩松平家墓所
JR会「津若松駅」よりまちなか周遊バス「ハイカラさん」で40分、「院内」停留所下車、徒歩10分 - 史跡若松城
JR「会津若松駅」より会津乗合自動車バス鶴ヶ城経由飯盛山行きで15分、「鶴ヶ城北口」停留所下車、徒歩5分
教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)

- 会津慶山焼(あいづけいざんやき)
- 起上り小法師(おきあがりこぼうし)
- 白山沼イトヨ生息地(はくさんぬまいとよせいそくち)
- 会津絵蝋燭(あいづえろうそく)
- 若松賤子(わかまつしずこ)
- 会津赤ベコ(あいづあかべこ)
※関連(かんれん)する項目(こうもく)を表示(ひょうじ)しています。
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