その他(そのほか)
馬場楽山(ばばらくざん)
地域(ちいき):
相双地域(そうそうちいき)市町村(しちょうそん):
浪江町(なみえまち)カテゴリー:
その他(そのほか)生没年:
1813~1868時代:
江戸時代(えどじだい)~江戸時代(えどじだい)
人物紹介(じんぶつしょうかい)
馬場楽山(ばばらくざん)は、19世紀初め頃、中村藩士(なかむらはんし)天野家(あまのけ)に生まれましたが、1822年に北幾世橋(きたきよはし)村【現在の浪江町北幾世橋】の武士で酒造業(しゅぞうぎょう)も営(いとな)む馬場家の養子(ようし)になりました。
楽山は、学問を好み若い頃から秀才(しゅうさい)と評判(ひょうばん)の高い人でした。養子となってからは家業に精(せい)を出し、馬場家はたいそうさかえました。そのころ北幾世橋村では、大きな火災(かさい)があったり、作物が満足(まんぞく)に取れない年もあったりしてこまっている人がたくさんいました。そんなとき、楽山はたくわえたお金や食糧(しょくりょう)を惜しげもなくあたえ、救いの手をさしのべました。
また、楽山は1830年頃から、学問をこころざす人々のため「楽山塾(らくさんじゅく)」という私塾(しじゅく)をつくり、数多くの若者を指導(しどう)しました。蔵書(ぞうしょ)もたくさんあり、必要な人々にどんどん貸しあたえました。この私塾は、1868年に楽山が亡くなるまでつづきました。
楽山が北幾世橋村でこのように活躍(かつやく)していたため、明治維新(めいじいしん)の後、錦織晩香(にしこおりばんこう)や西植堂(にししょくどう)などのすぐれた学者がこの地に住み、塾を開くことができたと言われています。なお「楽山」は号で、本名は馬場弥右衛門周時(やえもんちかとき)といいます。
資料・他(しりょう・ほか)
『幾世橋小学校創立百周年記念誌「白檀」』『浪江町史』
主な業績(おもなぎょうせき)
のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)
現在も「幾世橋は、文教の地」と言われており、その基礎をきずいた人物です。関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)
- 馬場楽山先生墓碑銘
錦織晩香が書いたもので、浪江町北幾世橋大聖寺にあります。
副読本(ふくどくほん)
関連文献(かんれんぶんけん)
詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)
- 浪江町教育委員会
事務局郷土文化係
電話:0240-23-5601
現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)
- 大聖寺
JR常磐線「浪江駅」より車で10分
その他(そのほか)
教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)
浪江町教育委員会電話:0240-34-2111
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