教育(きょういく)
西 植堂(にししょくどう)
地域(ちいき):
相双地域(そうそうちいき)市町村(しちょうそん):
浪江町(なみえまち)カテゴリー:
教育(きょういく)生没年:
1843~1899時代:
江戸時代(えどじだい)~明治(めいじ)
人物紹介(じんぶつしょうかい)
西植堂(にししょくどう)は、1843年、中村藩士(なかむらはんし)で藩の重役をになう家に生まれました。父は学問にすぐれた人でしたので、植堂も幼いころからよく学問を学び、青年時代には江戸に出て吉野金陵(よしのきんりょう)という学者から学問を修得(しゅうとく)しました。
明治維新(めいじいしん)の後、廃藩置県(はいはんちけん) 【全国の藩を廃止して府と県(ふけん)を置いたこと】が行われ、四民平等(しみんびょうどう)の世の中になると、1871年北幾世橋(きたきよはし)村【現在の浪江町北幾世橋】に父とともに住み、「高爽亭(こうそうてい)」という私塾(しじゅく)を開き、1887年までの16年間この地方の多くの若者たちを指導(しどう)しました。植堂に学んだ人の中には、後に大活躍(だいかつやく)した人がたくさいます。また、このころはわが国の義務教育(ぎむきょういく)が十分整わない時代だったので、小学校教育の整備(せいび)に全力をあげ協力しました。
1899年、植堂が亡くなると、植堂に学んだ人々が「植堂文庫(ぶんこ)」を建て、感謝(かんしゃ)の心を表しました。
なお、「植堂」は号であり、本名は西齋治(ときはる)といいます。
資料・他(しりょう・ほか)
『幾世橋小学校創立百周年記念誌「白檀」』『浪江町史』
『双葉郡誌』
主な業績(おもなぎょうせき)
のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)
現在「幾世橋は、文教の地」と言われており、錦織晩香はその基礎をきずいた一人です。関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)
副読本(ふくどくほん)
関連文献(かんれんぶんけん)
詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)
- 浪江町教育委員会事務局郷土文化係
電話:0240-23-5601
現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)
その他(そのほか)
教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)
浪江町教育委員会電話:0240-34-2111
- 大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)
- 請戸川リバーライン(うけどがわりばーらいん)
- 西 植堂(にししょくどう)
- 半谷休閑(はんがいきゅうかん)
- 相馬野馬追(そうまのまおい)
- 錦織晩香(にしこおりばんこう)
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