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文化・芸術(ぶんか・げいじゅつ)

相馬昌胤(そうままさたね)

  • 地域(ちいき)

    相双地域(そうそうちいき)
  • 市町村(しちょうそん)

    浪江町(なみえまち)
  • カテゴリー:

    文化・芸術(ぶんか・げいじゅつ)
  • 生没年:

    1661~1728
  • 時代:

    江戸時代(えどじだい)~江戸時代(えどじだい)

人物紹介(じんぶつしょうかい)

相馬昌胤(そうままさたね)は、1679年に19歳という若さで第五代中村藩主(はんしゅ)となりましたが、健康(けんこう)に恵まれなかったため1701年藩主の座をしりぞきました。その後は、泉田村【現在の浪江町幾世橋(きよはし)】の北原御殿(きたはらごてん)というところで隠居(いんきょ)し、泉田村を幾世橋村とあらため、亡くなるまで28年間この地に住みました。
 このころは、元禄文化(げんろくぶんか)が栄えた時代でしたが、昌胤(まさたね)は、文化にたいへん関心(かんしん)が深く、地方文化の発展(はってん)に大いに貢献(こうけん)しました。絹本著色(けんぽんちゃくしょく)松川浦十二景和歌色紙帖(まつかわうらじゅうにけいわかしきしじょう)の作成もその一つです。これは、相馬市の松川浦【現、県立自然公園】の名所を狩野派(かのうは)の画家に描かせ、朝廷(ちょうてい)に願い出て天皇の勅許(ちょっきょ)【許可(きょか)】を得て和歌をよんでもらったものです【この当時、新たな名所をつくり出すには、天皇の許可が必要でした】。
 また、隠居後(いんきょご)は、北原御殿の近くに養真殿(ようしんでん)という神殿(しんでん)を建て、後に中御門天皇(なかみかどてんのう)の直筆(じきひつ)の額をかかげています。この建物は、内部にあざやかな色がほどこされ、二間社流造(にけんしゃながれづくり)という様式を持った大変りっぱなものです。さらに、歌道を学び数多くの和歌をよんだり、いくつもの寺社をまつるなど、旧中村藩内【ほぼ現在の相馬地方全域と双葉地方北部】の文化や宗教に大きな足跡(そくせき)をのこしました。

資料・他(しりょう・ほか)

『相馬市史』
『浪江町史』

主な業績(おもなぎょうせき)

  • 都玉神社(くにたまじんじゃ)を造営(ぞうえい)をしました。
  • 涼ヶ岡八幡神社(すずみがおかはちまんじんじゃ)を造営しました。
  • 絹本著色松川浦十二景和歌色紙帖をつくりました。
  • 養真殿(ようしんでん)を造営しました。
  • 北標葉(きたしねは)【現在の浪江町】に数多くの寺社を迎えました。

のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)

関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)

●都玉神社/
 昌胤(まさたね)の子都胤(くにたね)が幼くしてなくなったので、祭神としてまつり、1718年、現在地の坪田村(つぼたむら)【現・相馬市坪田】に遷宮(せんぐう)しました。なお、養真殿にかかげられていた勅額(ちょくがく)は、昌胤死去の後、ここに移され保存されています。

●涼ヶ岡八幡神社/相馬市
 1695年 相馬昌胤が再造営したと伝えられています。

●大聖寺(だいしょうじ) /浪江町
 北原御殿跡地(あとち)。山門は、北原御殿の門を移したものです。また、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)と鬼子母神像(きしぼしんぞう)は相馬昌胤勧請(かんじょう)のものであり、梵鐘(ぼんしょう)は相馬昌胤が鋳造(ちゅうぞう)させたものです。なお、本堂北側に北原御殿の遺構(いこう)があり、相馬昌胤の墓所(ぼしょ)がある。

●初発神社/浪江町
 本殿は、相馬昌胤造営の養真殿の遺構です。

副読本(ふくどくほん)

関連文献(かんれんぶんけん)

詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)

  • 浪江町教育委員会事務局郷土文化係
    電話:0240-23-5601

現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)

  • 大聖寺
    JR常磐線「浪江駅」より車で10分

その他(そのほか)

教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)

浪江町教育委員会
電話:0240-34-2111

都玉神社

涼ヶ岡八幡神社

初発神社(旧養真殿)内部

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