

医学・科学(いがく・かがく)
服部ケサ(はっとりけさ)

地域(ちいき):
県中地域(けんちゅうちいき)市町村(しちょうそん):
須賀川市(すかがわし)カテゴリー:
医学・科学(いがく・かがく)生没年:
1884~1924時代:
明治(めいじ)~大正(たいしょう)
人物紹介(じんぶつしょうかい)
服部ケサは、明治17(1884)年、須賀川で生まれました。兄の影響(えいきょう)を受け、文学を勉強をするために東京に行きましたが、家族が次々と病気になったため、須賀川にもどり家族の看病(かんびょう)にあたりました。このことが、医者を目ざすきっかけとなり、21歳で現在の東京女子医大に入学。
卒業後、東京三井慈善病院(みついじぜんびょういん)に看護婦(かんごふ)としてつとめました。そこで多くのハンセン病患者(かんじゃ)と出会ったケサは、その病状(びょうじょう)に心をいため、その治療(ちりょう)に一生をささげることを決意しました。当時、ハンセン病は不治の病(ふじのやまい)といわれ、多くの患者が苦しんでいました。
その後、群馬県草津(くさつ)のハンセン病患者専門(せんもん)の聖バルナバ医院につとめ、一生懸命(いっしょうけんめい)患者の看護(かんご)にあたりました。そして、いつしかハンセン病患者の理想郷(りそうきょう)をつくる思いを強くしたケサは、大正13(1924)年、日本人として初めてのハンセン病患者専門の「鈴蘭病院(すずらんびょういん)」を開業(かいぎょう)し、その治療に一生をささげました。
資料・他(しりょう・ほか)
『わたしたちの須賀川』須賀川市教育委員会発行『須賀川市人物読本「先人のあしあと」』須賀川市教育委員会発行
『福島県人物風土記』 暁教育図書株式会社行
『須賀川市史 第7巻「文化と生活編」』 須賀川市教育委員会発行
主な業績(おもなぎょうせき)
のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)
ハンセン病専門に開かれた「鈴蘭病院」は、昭和6年に国立療養所(りょうようじょ)・栗生楽泉園(くりうらくせんえん)となり、現在もハンセン病医療(いりょう)に大きく貢献(こうけん)しています。関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)
- 服部ケサ顕彰碑
(けんしょうひ)
昭和31年、服部ケサ子女顕彰会(が業績をたたえるために立てました。 【岩瀬公立病院敷地(しきち)内】
副読本(ふくどくほん)
関連文献(かんれんぶんけん)
詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)
- 須賀川市教育委員会
生涯学習課
電話:0248-88-9171
現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)
須賀川市教育委員会・JR「須賀川駅」下車、徒歩20分
・「須賀川IC」から車で5分
その他(そのほか)
教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)

- 小林久敬(こばやしひさたか)
- 亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)
- 和田大仏及び横穴墓群(わだだいぶつおよびよこあなぼぐん)
- 米山寺経塚群(べいざんじきょうづかぐん)
- 大栗自奉楽(おおぐりじほうらく)
- 円谷英二(つぶらやえいじ)
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