

郷土開発(きょうどかいはつ)
伊藤八郎(いとうはちろう)

地域(ちいき):
県北地域(けんぽくちいき)市町村(しちょうそん):
本宮市(もとみやし)カテゴリー:
郷土開発(きょうどかいはつ)生没年:
1840~1899時代:
江戸時代(えどじだい)~明治(めいじ)
人物紹介(じんぶつしょうかい)
伊藤八郎の家は、戦国時代(せんごくじだい)までは小屋館(こやたて)【岩色城(いわいろじょう)】の館主(かんしゅ)でしたが、その後やめていた農業にもどり、蒲生氏郷領(がもううじさとりょう)のとき苗代田村(なわしろたむら)の名主(みょうしゅ)となりました。村内の水路の補修(ほしゅう)や維持(いじ)は伊藤家が担当していました。
明治時代に入った明治15(1882)年には安積開拓(あさかかいたく)のひとつとして、日影沢用水(ひかげさわようすい)の延長(えんちょう)を願い出ました。当時、岩根村(いわねむら)の村長であった伊藤八郎は、下流にある村々の説得(せっとく)や、用水を延長するための工事に協力し、青田原疎水(あおたはらそすい)が完成しました。
さらに、伊藤は疎水を維持(いじ)するため、上流部(じょうりゅうぶ)の山林を基本財産(きほんざいさん)として、官有林(かんゆうりん)払い下げ運動を自らの財産を使って行い、明治22(1889)年にこれを実現させました。
資料・他(しりょう・ほか)
『本宮町史 3巻「近代」』 50,66,353~355ページ『福島農業史 5巻「人物」』47,48ページ
主な業績(おもなぎょうせき)
のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)
日影沢用水の延長により、水利が悪く原野であった青田原が開発される原動力となりました。関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)
- 日影沢用水
(青田原疎水)
安積開拓の一環として、青田原の用水確保のため、1882年に日影沢用水の延長をはかりました。
副読本(ふくどくほん)
関連文献(かんれんぶんけん)
詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)
本宮市立歴史民俗資料館現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)
- 日影沢用水
(青田原疎水)
JR東北本線「本宮駅」下車、5分
その他(そのほか)
教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)

- 岩角山(いわづのさん)
- 八ツ田内七福神舞(やっとうちしちふくじんまい)
- 菅野達生堂(すげのたっせいどう)
- 紺野羽右衛門(こんのはえもん)
- 蛇の鼻遊楽園(じゃのはなゆうらくえん)
- 伊藤八郎(いとうはちろう)
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