教育(きょういく)
錦織晩香(にしこおりばんこう)
地域(ちいき):
相双地域(そうそうちいき)市町村(しちょうそん):
浪江町(なみえまち)カテゴリー:
教育(きょういく)生没年:
1816~1888時代:
江戸時代(えどじだい)~明治(めいじ)
人物紹介(じんぶつしょうかい)
錦織晩香(にしこおりばんこう)は、1816年中村藩士(なかむらはんし)の家に生まれました。18才のとき江戸勤務(きんむ)となり、1843年には江戸の昌平坂(しょうへいざか)学問所で学びました。藩に帰ったあと、藩校育英館(はんこういくえいかん)の学頭(がくとう)【校長のような役】をつとめ、その後、藩の政治の重要な役目について活躍(かつやく)しました。1868年の戊辰戦争(ぼしんせんそう)のときは、藩の軍事掛(ぐんじかかり)として戦いましたが、中村藩が西軍に降伏(こうふく)すると、中村城下(じょうか)が戦争の被害(ひがい)にあわないよう東西両軍を説得(せっとく)しました。
明治維新(めいじいしん)により廃藩置県(はいはんちけん)【全国の藩を廃止し府と県(ふけん)を置いたこと】が行われ、四民平等(しみんびょうどう)の世の中になると、1871年北幾世橋(きたきよはし)村【現在の浪江町北幾世橋】に住み「希賢舎(きけんしゃ)」という塾を開き、青少年教育に専念(せんねん)することにしました。「希賢舎」で学んだ塾生(じゅくせい)は数千人にもおよぶと言われており、その中には、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)で有名な愛澤寧堅(あいざわやすたか)をはじめ、立派(りっぱ)な活躍をした人がたくさんいます。
なお、「晩香」は号であり、名を錦織積清(にしこおりせきせい)といいます。
資料・他(しりょう・ほか)
『百回忌記念「錦織晩塙先生遺墨集」』『浪江町史』
『錦織晩香先生小伝』 常盤芳秀
『幾世橋小学校創立百周年記念誌「白檀」』
主な業績(おもなぎょうせき)
のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)
現在「幾世橋は、文教の地」と言われており、錦織晩香はその基礎をきずいた一人です。関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)
- 晩香錦織先生墓碑銘
(ぼひめい)
明治27年、昌平黌同門(しょうへいこうどうもん)の増田貢(ますだみつぐ)の銘文(めいぶん)により7回忌(かいき)にたてられました。 浪江町北幾世橋大聖寺(きたきよはしだいしょうじ)にあります。
副読本(ふくどくほん)
関連文献(かんれんぶんけん)
詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)
- 浪江町教育委員会事務局郷土文化係
電話:0240-23-5601
現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)
- 大聖寺
JR常磐線「浪江駅」より車で10分
その他(そのほか)
教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)
浪江町教育委員会電話:0240-34-2111
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