その他(そのほか)
熊坂適山(くまさかてきざん)
地域(ちいき):
県北地域(けんぽくちいき)市町村(しちょうそん):
伊達市(だてし)カテゴリー:
その他(そのほか)生没年:
1796~1864時代:
江戸時代(えどじだい)~江戸時代(えどじだい)
人物紹介(じんぶつしょうかい)
適山(てきざん)は江戸時代後期に市柳村【現在の伊達市保原町】で、蚕種業(さんしゅぎょう)・酒造業(しゅぞうぎょう)をいとなむ家の長男に生まれました。子どものころ、梁川藩家老(かろう)【前福山藩家老】の蠣崎波響(かきざきはきょう)から絵を学び、その後、京の浦上春琴(うらがみしゅんきん)や大分の田能村竹田(たのむらちくでん)らから教えをうけ、腕(うで)をみがきました。
山水画(さんすいが)【山や河(かわ)など、自然の風景(ふうけい)を描いた絵画】を得意(とくい)とし、嘉永(かえい)6(1853)年に描いた『蘭亭曲水図(らんていきょくすいず)』は福島県指定文化財(していぶんかざい)になっており、他にも多くの作品が残されています。
晩年(ばんねん)は恩師(おんし)である波響の縁(えん)で北海道福山藩に招かれ、勘定方(かんじょうかた)の役人となって、江戸や松前(まつまえ)に行きました。適山は医者である弟の蘭斎(らんさい)とともに絵画の入門書を3冊ほど出版(しゅっぱん)しています。
適山の弟子のなかで一番出世した菅原白龍(すがわらはくりゅう)によれば、「俗(ぞく)を離れし人」「絵画よりも学問、学問より人格の人」であったといいます。江戸でも認められる存在(そんざい)の画家でした。
資料・他(しりょう・ほか)
『熊坂適山』添田達嶺著 昭和27年『保原町史 5』 昭和60年
主な業績(おもなぎょうせき)
のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)
すぐれた門弟(もんてい)をそだて、県北地方の芸術文化の発展に貢献(こうけん)しました。関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)
- 生家跡(せいかあと)
- 墓碑(ぼひ)および画碑 仙林寺(せんりんじ)、長谷寺(ちょうこくじ)、受円寺(じゅえんじ)
副読本(ふくどくほん)
関連文献(かんれんぶんけん)
詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)
伊達市保原歴史文化資料館 電話:024-575-1615現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)
その他(そのほか)
教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)
- 向川原観音様の獅子踊(むこうがわらかんのんさまのししおどり)
- 菅野八郎(かんのはちろう)
- 北又の獅子舞(きたまたのししまい)
- 齋藤彦内(さいとうひこない)
- 旧梁川亀岡八幡宮並びに別当寺境域(八幡神社)(きゅうやながわかめおかはちまんぐうならびにべっとうじけいいき(はちまんじんじゃ))
- 安田利作(やすだりさく)
※関連(かんれん)する項目(こうもく)を表示(ひょうじ)しています。
クリックするとその項目のページへジャンプします。