

文化財(ぶんかざい)
観海堂跡(かんかいどうあと)
地域(ちいき):
相双地域(そうそうちいき)市町村(しちょうそん):
新地町(しんちまち)カテゴリー:
文化財(ぶんかざい)
紹介説明(しょうかいせつめい)
観海堂(かんかいどう)は、明治5年学制公布(がくせいこうふ)に先がけてに開校した学校です。明治維新(めいじいしん)の混乱(こんらん)が続いていた当時、宇多・亘理郡長助役(うだ・わたりぐんちょうじょやく)だった目黒重真(めぐろじゅうしん)が、「これからは教育が一番大切になる」と考え、仲間たち54人と学校を作らせてほしいという文書を宮城県まで届けました。目黒重真が中心となって、先生には仙台藩養賢堂(せんだいはんようけんどう)で先生をしていた氏家晋(うじいえしん)を迎えました。教科書や学校田を買い、学校田で実ったお米を売って、学校の運営資金にあてることで、生徒からは授業料を取らずにすみました。
卒業生には、初代台湾高等法院長(しょだいたいわんこうとうほういんちょう)を務めた高野孟矩(たかのたけのり)などがいます。
2011年東日本大震災で生じた津波は、海岸から約1㎞離れた観海堂を飲み込み、建物はなくなってしまいました。しかしながら、新地町では教育発祥の地、明治維新からの復興のシンボル、そして東日本大震災からの復興のシンボルとして観海堂跡地と名称を変更して大切に語りついでいます。
資料・他(しりょう・ほか)
『新地町史 資料編』新地町史編さん委員会編集・新地町教育委員会発行
『新地町史 歴史編』
新地町史編さん委員会編集・新地町教育委員会発行
詳しく調べるために(くわしくしらべるために)
<詳しい情報の入手先>・新地町教育委員会 電話:0244-62-4477
<現地へ行くまでの交通案内>
・JR常磐線「新地駅」より南西へ約40m
その他(そのほか)
・福島県史跡指定(昭和41年指定)・観海堂跡へ名称変更(平成30年2月6日)
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