

その他(そのほか)
佐久間義燐(さくまぎりん)

地域(ちいき):
相双地域(そうそうちいき)市町村(しちょうそん):
川内村(かわうちむら)カテゴリー:
その他(そのほか)生没年:
1823~1899時代:
江戸時代(えどじだい)~明治(めいじ)
人物紹介(じんぶつしょうかい)
義燐(ぎりん)は川内村で生まれました。子どものころの名前を長造(ちょうぞう)といいます。後に与衛門(よえもん)と名乗りました。
義燐の家は代々つづいた農家(のうか)で、養蚕(ようさん)や水車稼ぎ(すいしゃかせぎ)【精米(せいまい)】のほかに質屋(しちや)も営(いとな)んでいました。庄屋をつとめ、病気のため引退(いんたい)するまで、村の政治(せいじ)・経済(けいざい)のリーダーの一人として活やくしました。
明治維新(めいじいしん)後は身に付けた農業改良技術(のうぎょうかいりょうぎじゅつ)を農民に指導(しどう)し、農業の振興(しんこう)にも貢献(こうけん)しました。また、明治2年の凶作(きょうさく)では、自らの金品や穀物(こくもつ)を提供(ていきょう)し村民をすくいました。
天保(てんぽう)以後の村の生活様式(ようしき)の変化を取りまとめた『一夜雑談(いちやざつだん)』や村指定の文化財『見聞雑記(けんぶんざっき)』全24巻があります。義燐は、村を代表する文化人でもありました。
彼は20歳ごろ常磐(いわき)平【現いわき市平】で学問を平藩儒者の神林弼(かんばやしたくす)や松本という人に学びました。また、和歌・俳句(はいく)を楽しみ、俳号(はいごう)【俳句の作者としての名前】を梅園喜鳥(うめぞのきちょう)と言って多くの作品をのこしています。
資料・他(しりょう・ほか)
『川内村史』 通史編、資料編主な業績(おもなぎょうせき)
- 農業改良を指導し、振興させました。
- 村政の発展に貢献しました。
- 村の文化を向上させました。
のちに与えた影響(のちにあたえたえいきょう)
農産物の増産に寄与(きよ)しました。関連する史跡・施設(かんれんするしせき・しせつ)
副読本(ふくどくほん)
関連文献(かんれんぶんけん)
詳しい情報の入手先(くわしいじょうほうのにゅうしゅさき)
現地へ行くまでの交通案内(げんちへいくまでのこうつうあんない)
その他(そのほか)
教育委員会連絡先(きょういくいいんかいれんらくさき)

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